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2007年11月09日

●続時計の小話・第67話(T老時計師からの贈り物)

先日、千葉県市川市のK・T様より時計工具類(ヤットコ13本、ヤスリ7本、四つ割4個、目打ち台3個、キズミ3個、刷毛3本、精密ドライバー、精密天秤等多数)が送られてきました。

これらの工具は、T氏が長年に渡り、時計職人としてお使いになられてきた物で、非常に年期の入った工具類でした。修理家業を既に辞められてから長い年月が過ぎていたために錆びていたのが残念でしたが、小生に今後役立てて欲しい、という事で送られてきたものでした。

T氏は大正2年のお生まれで、御年94歳のご高齢の方ですが、今でも健康に過ごされているそうで、とてもお目出度い事であります。

一年半ほど前に、T氏からメールを頂き、小生が書いている『時計の小話』を愛読している、という嬉しいお言葉を頂きました。後日、T氏よりいろんな資料が送られてきて、私の父親と生まれた時代が同じ頃なので、懐かしく想いながらT氏の資料を拝見させて頂きました。

T氏は、若い頃より時計店を経営する事に大志を抱き、昭和8年に東京時計商工同業組合(組合長・野村菊次郎、副組合長・千野善之助)が主催した、時計修理技術試験に合格して、時計職人として、第一歩を踏み出されました。

その時の試験は、学科と実技があり、旋盤で天真を作り、巻き真は四つ割にスチール棒を挟んでヤスリがけして作ったそうです。当時としては、恐らくかなりの難度の高い試験だったのではないか?と思われます。東京で30名の方が受験され、20名の方が合格されたそうです。

氏はその後、中国・満州国に渡り、昭和10年~昭和21年まで満州国におられたそうです。

満州国の奉天大和区江ノ島町3番地『千日通り』にT時計店を設立され、5人の時計職人を雇う程、大きな店へと発展なされ、一日に、時計修理が30個ほど来た繁盛店であったそうです。店内にはボーレ旋盤機、洗浄機もあったそうで、当時としては最先端の修理設備を持つ店であった事が伺いしれます。

お店の写真も送られてきましたが、今でも通用するような立派な店構えで、T氏の頑張りと営業努力が良く理解できました。終戦後、この店を閉じて日本に帰る時は、恐らく断腸の思いで涙を流されたに違いありません。

人に言えないほど辛い思いをされたに違いなく、帰国後立ち直るまで長い時間がかかったのではないかと痛ましく思われます。日本に帰ってからは、その後時計商よりも宝石商として、事業内容を変更なされ今日到ったそうです。

工具類と共に送られてきた中に、氏が長年に渡り時計学を学んできた事が推測出来る、分厚いノートも送られてきました。一部読まさせて頂きましたが、几帳面な字でビッシリと時計修理作業の事が書かれていました。

恐らく、氏が大望を抱いてから、一生懸命に時計学の勉強に励んでこられた事が容易に想像出来るほどの濃い内容でありました。T氏の様に、一生懸命になって生きてこられた方々が、この世には沢山おられるのではないか?と思い、頂いた資料と工具は大事に保管して、時計技術通信講座を再開した時に、受講生に見せたいと思います。