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2007年02月18日

●続時計の小話・第52話(CMW海外派遣事業)

日本調時師協会(日本時計師会前身)専務理事・飯田茂先生と沖縄の大店『山城時計店』・山城勝社長の尽力により、1966年より、CMW海外派遣事業が始まりました。CMW試験の上位合格者2名をアメリカ・ベンラス時計会社へ2年間時計技術者として、派遣する事業です。

第1回目の派遣には、生野工業高校・時計計器科卒業生で、最初にCMWを合格した松山のF君と、(株)ジェコーに勤務していたF君が名誉にも選ばれて、米国へ旅立っていったのです。

ベンラス時計会社で、派遣された若いCMW諸君は技量を大いに認められ、週40時間労働で、75ドルを支給され(月給としては、日本円に換算して当時10万8千円です。当時は1$360円時代。当時大学初任給が4~5万円前後の時代の事を思えば、かなり優遇されていたものと思います。

日本では未だ普及していない週5日勤務。何せ食料が日本と比較して安く生活費が想像以上にかからなかったそうです。)さらに住居費はベンラス時計会社が全額負担し、年収で当時の金額で130万円近くを貰っていたために、派遣された諸君は2年間の派遣終了後、小遣いを一杯貯め込んでスイスを中心にヨーロッパ旅行を巡って帰国したそうです。

現代では、海外旅行に出かけるのに誰もが容易に手軽に行ける時代になりましたが、40年前では、航空運賃等もベラボーに高くて、本当に財布の中身が潤沢である一部の富裕層の一部の人のみしか海外渡航は出来なかったのですから、このCMW海外派遣事業は当時としては大いに話題になりました。

このニュースを伝え聞いた、スイスの高級腕時計会社『ユリスナルダン』の4代目社長レイモンド・ナルダン氏が、来日しCMWの二次試験を見学されました。レイモンド・ナルダン氏は、スイス時計学校を卒業し、時計学校の教師にもなられた程の時計専門家でした。

ナルダンと言えば船舶用クロノメーターのメーカーとして有名でしたが氏は当時、船舶用クロノメーターの責任者として製品を検品するほどの実力者でした。その彼がCMW試験の高度な試験内容に驚嘆し、『CMW受験生がどこで、このような高度な時計技術の勉強をしたのか?』と問われる程に不思議がっておられた、という逸話があります。

ニューヨークにあったベンラス時計会社には、400人の社員がいて、アフターサービス部門には、60名の時計職人がいたそうです。ベンラス時計会社は当時、コネティカット州にも生産工場を所有するほどの、アメリカにおいては中堅時計会社でしたが、ご多分に漏れずクォーツクラッシュの影響をもろに受け、現在では残念ながら会社自体が消滅してしまっているのは、残念に思われてなりません。

スイスの名門時計会社が復活しているようにベンラスも何時の日か復活して欲しいものです。ベンラス社は日本の、日本のCMWを高く評価してその名誉を湛える為に、大阪の生野工業高校時計計器科にベンラス社製、メカ式腕時計を教材として300個寄贈されたのです。当時の金額で、500万円を超すという、莫大な寄贈でした。

このCMW海外派遣事業は、1970年代半ばまで、継続して行われ才能ある若手時計技術者が海外で活躍したという業績を残しました。現在では時計職人に成ることに夢を抱いた日本の若い諸君が単独でスイス時計学校に入学して卒業し、スイスの有名時計メーカーに就職している事を思えば時代の大きな変容のうねりを感じます。