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2007年01月21日

●第10話(セイコー創業・服部家について)

セイコー腕時計を仕入れる場合、現在の時計店のほとんどは、セイコーの支社であるセイコーウォッチ販売会社より仕入れます。しかし過去には卸商会社があり、そこから仕入れる場合と、セイコーから直接仕入れる場合 の2通りがありました(関西では栄光時計・太陽興業等の卸商がありました)。

私の父の時代には、セイコーから直接仕入れ出来ることに、父は非常に喜びと満足を持っていました(年間に相当数の時計を仕入れないと、メーカーと直接取引は出来なかったのです)。セイコーの営業セールスマンが来ると、奥の座敷に招き入れ、昼食をごちそうするほどの待遇を父はしておりました。それほどまでに服部セイコーに対して、父は思い入れがあったのではないかと思います。今では夢のような話なのですが、3月の入進学シーズンになると、1ヶ月間で500本腕時計を仕入れて販売する店が、優秀ディーラー店・1ヶ月間で300本販売する店が、 優良ディーラー店、としてセイコーから表彰されたのです(現在3月にセイコーを1店舗で 500本売る店はどれだけあるのでしょうか・・・)。父はそれを大事に飾っていたものです。

セイコー創業者は服部金太郎氏・2代目社長はその長男の服部玄三氏・3代目社長は玄三氏の弟の服部正次氏です。3代目の社長がセイコーを世界のセイコーに躍進させた功労者なのです。正次氏亡き後に跡を継いだのは、玄三氏の長男:服部謙太郎氏です(それまでは慶応大学の教授をしておられました)。謙太郎氏が社長就任してわずかな期間で夭折された後、5代目社長になられたのが 弟の礼次郎氏です(現在の会長)。

セイコー舎は以前、親会社の服部時計店・諏訪セイコー・精工舎・第2精工舎の4つのグループで構成されていました。諏訪セイコー舎は現在セイコーエプソンと改名し、パソコン周辺機器の製造会社として大発展しているのはみなさんご存じだと思います。腕時計製造会社から今の業態へ変化を遂げさせたのは、正次氏の長男:一郎氏の功績です。親会社セイコーが年商3000億円なのに対し、セイコーエプソンは売上高4倍近い1兆円を越す大企業に発展しております(来年東証1部上場予定)。
それほどまでに飛躍的に発展した会社の舵取りをした一郎氏は、残念にも若くして亡くなられてしまいました。しかしセイコー舎には優秀な経営者が矢継ぎ早に輩出されているからこそ、今のセイコーが存在するのではないでしょうか。

私は20代の頃、メーカーの招待で諏訪セイコー・精工舎の社内見学をした事があります。今の半導体メーカーの従業員の様な服装をして、工場内を歩き回りました。
30年前ですら、セイコーは湿気・ゴミ・埃などに細心の注意をはらっていたのです。
私も父と同じように、セイコー舎の腕時計が好きです。なぜなら、最近よく思うのですが、セイコーの機械時計の設計が修理しやすく、部品数が極めて少なく、効率よくおさめられているからです。ロレックスは確かに高精度を発揮できる設計がされていますが、ムーブメントの簡潔さにおいては、はるかにセイコーの方が数段優っていると思います。

セイコーロードマチック(現在では生産されていません)等は、私の思う所では最高の自動巻カレンダー付き腕時計のムーブメントだったと確信しております。セイコー舎が今後、水晶腕時計だけではなく、素晴らしい機械式腕時計を開発設計し、発売されることを願ってやみません。