« 第77話(グランドセイコーの歴史について その2) | | 第79話(ROLEXアンティークについて) »
« 第77話(グランドセイコーの歴史について その2) | | 第79話(ROLEXアンティークについて) »
2007年01月21日

●第78話(諏訪セイコーと第二精工舎と精工舎について) 

天文台コンクールについてもっと詳しく知りたいという読者の方が多いので、さらに述べてみます。諏訪セイコーと第二精工舎は、1963年から1968年までスイス天文台コンクールに参加しました。天文台コンクールは純粋に時計の精度を競う時計メーカー同士の激しい争いでした。その常連はオメガ・ゼニス・ロンジンで、いつもトップを競っておりました(ロレックス・IWCは参加しませんでした)。日本の時計メーカーでは唯1社、セイコーのみが敢えて挑戦したのです。そのチャレンジ精神は見事と言うほかありません。それほどまでに、その頃はスイスと日本では時計技術の差が歴然とあると思われていたからなのです。

腕時計クロノメーターと言えば、スイス高級時計の代名詞みたいなものでした。その時代の日本の時計マニアは、大枚なお金を出してスイス製高級腕時計クロノメーターを買っていたのです。

その精度競争の場は、ニューシャテル、ジュネーブ両天文台で行われました。セイコーは最初の頃は余り芳しい成績ではなかったのですが、テンプの振動を6から10振動にすることにより、目覚ましい精度を発揮するようになったのです。当初はオメガ・ロンジン・ゼニスに太刀打ち出来なかったのが、参加して2~3年で追いつき、そして追い越すほどにセイコー技術陣は頑張ったのです。その設計陣の中心におられた方が小牧昭一郎氏(現ヒコミズノ学校の講師、私は20代の若いとき、東京であったCMW大会に参加してダンディな氏にお会いしました。私にとっては憧憬の対象となる先生です)・久保田浩司氏(この先生にお会いしようと思われたらセイコー資料博物館にいかれたらいいでしょう。今そこの館長をしておられます。時計史に関しては造詣の深い先生です)・依田和博氏であり技術調整者が、かの有名な小池健一氏・中山きよ子氏・稲垣篤一氏・野村荘八郎氏・井比司氏(この5名の方々は日本が世界の誇る技術調整者でしょう)なのです。

歴史を誇ったニューシャテル天文台コンクールは1967年が最後になりましたが、中止になった大きな原因は東洋の国の日本のセイコーが短期間に目覚ましい精度の躍進を遂げ、コンクールで有名スイス時計メーカーを駆逐したからに違い有りません。ジュネーブ天文台コンクールは1968年が最後になりましたが、実質メカ時計分野では1位から7位まで諏訪セイコーが独占し、圧倒的な勝利を収めたのです。歴史の浅い日本の一企業のセイコーが、何百年と連綿と続くスイス有名時計メーカー連合に打ち勝ったという快挙なのです。その為にジュネーブ天文台コンクールも1968年にうち切られてしまいました。

その当時の諏訪セイコーと第二精工舎の時計精度の関する技術力は、まぎれもなく世界最高峰であったと断言しても差し支えないでしょう。その時代の技術の象徴の申し子として、天文台クロノメーター合格品の市販があるのです。そのCal(キャリバー)が第二精工舎45系の手巻き腕時計なのです。1969年に73個発売され、1971年までに延べ226個市場に出ました。市販された天文台クロノメーター合格品は平均日差が1秒も狂わないと言う、メカ式では想像でき得ない超高精度でした。

もう一つの子会社の雄、精工舎はクロック専門工場として大いに発展しましたが、人件費等の高騰により国際競争力が低下し、今では生産拠点を中国に移転しております。亀戸にあった工場は閉鎖されたと聞き及んでおります。これも一種の産業の空洞化でしょうか。

私は最近NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」をよく見ますが、この天文台コンクールに挑戦したセイコーの若き技術者達の話を取り上げて特集を組んで欲しいと願っております。その時活躍された生き証人の技術者の方々が元気で現役で活動されている内に放送をして欲しいなと思っております。この番組を見ていますと、日本人の職人・技術者魂が見事に描かれていて、毎回大きな感動を覚えます。日本の科学・技術力の低下が叫ばれている今、先人達の燃えたぎるような熱意・情熱に学びたいと思います。