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2007年01月22日

●続時計の小話・第8話(小林敏夫先生について)

日本における、時計技術向上の為に尽力をつくされた大恩人と言えば、一橋大学の山口隆二先生をまず第一に挙げなければなりませんが、山口先生と匹敵するほどの、恩人が小林敏夫先生です。

山口先生の努力により昭和28年、米国時計学会(HIA)の日本支部が誕生しました。理事長に井上信夫先生が着かれ、いろんな煩雑な業務を小林先生が一手に引き受けられ、翌年の昭和29年9月に日本時計史に残る第一回、CMW(公認高級時計師)試験が、挙行されたのです。学科問題等は英文にて送られてきたため、小林敏夫先生が翻訳して第一回受験生の角野常三氏、末和海先氏に渡されたのです。

当時は、延べ8日間の試験日程で、1日目が学科試験、2日目が自動巻腕時計の分解掃除 3日目が旋盤による巻き真製作4日目が旋盤による天真製作  5~8日目が懐中時計の分解掃除、修理調整でした。

このCMW第一回試験を受験すべく角野常三先生は、ご自宅を売却されて、当時としてはビックリするほど高価なビブログラフ(歩度検定器)と万能投影機を、購入された事は、今日まで時計業界の語り草になっています。

阪大を出られた、小林敏夫先生は、守口公共職業補導所を経て、日本時計師会会長、大阪府立生野工業高校校長を歴任して、 若手時計技術者の育成、日本時計技術向上の為に一生の間、全力投球で尽くされたのです。

(府立生野工業高校・時計計器科の設立にも尽力をされました。今日の機械式の復活を見るにあたり、唯一の公立の時計技術高等科が1986年に消滅したことは慚愧に耐えません。時計計器科の卒業生は29年間で延べ1,581名にのぼり現在この時計業界の屋台骨を背負っていることは紛れもない事実であります。時計計器科の教諭でおられた杉田昌幸先生は教職の傍らCMWの試験にも合格された方でありました。)

小林敏夫先生著の基礎時計読本は今なお時計技術者に愛読されている名著であります。小生が、昭和46年度のCMW試験に合格した時、小林敏夫先生は、日本時計師会の名誉会長の地位におられ、合格認定式の時に井上信夫先生と共に、心温まる祝辞を頂きました。日本にCMW試験導入という大功労者の山口隆二先生と、小林敏夫先生がおられなかったら、日本がこれほどまでに世界で有名になった、時計産業はしっかり根付かなかったものと思っています。

両先生の熱情に打たれてシチズンの岩澤央氏や、オリエント時計の加藤政弘氏、セイコーの遠山正俊氏、久保田浩司氏が、時計技術向上・発展の為に動かれたのです。偉大な足跡を残された小林敏夫先生も一昨年82才で逝去されたことは残念の極まりでありました。