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2007年01月22日

●続時計の小話・第9話(生野工業高校時計計器科について)

小生が昭和46年、CMW試験を受験した場所は、大阪府立生野工業高校時計計器科の教室でした。そのほかにも、受験者数が定員に達していれば、2名のCMW立ち会いの元、東京、名古屋、鹿児島でもCMW試験が、毎年行われました。

一次試験は、学科と旋盤作業のみでしたので、荷物はさほど多くはなかったのですが、二次試験になると荷物がどっと増え、超音波時計洗浄機、時計用小型精密旋盤、タイムグラファー、双眼拡大鏡、タガネ等をその頃の小生の愛車であった日産サニーに詰め込んで、大阪へ行きました。当時は、名神高速道路と言えども、そんなに車の量が多く無くて、割とスムーズにビュンビュン飛ばして大阪市内まで着いた事を今でも、覚えております。
(今では名神高速道は一般国道並の混雑さでとても疲れてしまうのですが当時はガラガラと言った方が適切だったかもしれません)

生野工業高校時計計器科は1957年(昭和32年)に設置され、電子機械科(現在では)に変更されるまで、29年間に1800余名の卒業生を排出しました。卒業生は、多くは時計業界に就職し、愛知時計電機、カシオ計算機、キャノン、シイベル時計、オリエント時計松下電器、松下電工、掘場製作所、島津製作所、シチズン、セイコー、シャープ、日立製作所、リズム時計、リコー、ミノルタカメラ、ロレックスサービス等の有名企業へ、飛び立っていきました。

在学3年間ミッチリ教え込む教授陣には、小林敏夫先生を始めとして、アメリカ時計学会よりヘイガンス賞を授与された下土居隆三先生、教諭でありながらCMWを獲得された杉田昌幸先生、非常勤講師には、CMW取得者の日本時計師会会長・飯田茂先生、日本時計師会・飯田弘理事、岩崎吉博理事、北山次郎理事先生等の32名の錚々たるメンバーが揃っておいででした。(諸先生の熱心な教育指導のお陰で卒業生の中にはCMWの合格者が少なからず出たのでした。)

公立の高校に時計技術を専門に教える科が出来た要因には、いろんな多種多様な要望があった訳ですが、一番の原因は当時、大阪の時計眼鏡商業協同組合の理事長をしておられた、尚美堂社長、江藤順蔵氏(日本時計師会・顧問の重責も担っておられました)の言葉から、汲み取る事が出来るのではないか?と思います。

『公平な目で現在の時計修理師を眺める時、正しく時計修理の出来る人は、誠に微々たるものであり、10人に1人、否100人に1人あるやなしかの様であり、全国3万と称せられる時計師に、自己の時計を安心して、託しうる事の出来る人を求めても、100人を探し得ないと、断言してはばからないのであります。現在、日本で一日数秒以内の誤差に製作された時計を、いつでも必ずその誤差範囲にとどめ得る修理師は、全く数えるほどしか、ありません。』

という、江藤氏の言葉が、発露となって、一橋大学の山口隆二先生、大阪大学の篠田軍治博士、大阪府立大学の石田道夫教授等が動かれ、メーカーのセイコー、オメガ、松下電工、アメリカベンラス時計会社等が教材を無償提供して時計計器科が発足したのです。

現在、近江時計学校、ヒコみずの時計学校、東京ウォッチ・テクニカム校を卒業するには、2~3年間で、400万円もの高額な授業料が必要ですが、生野工業高校・時計計器科は、当時の超一流の教授陣を配しても、わずかな授業料で卒業出来るという、公立高校ならではの非常に大きなメリットがあった訳です。(上記の近江時計学校、ヒコみずの時計学校、東京ウォッチ・テクニカム学校に学んでいる恵まれた生徒以外の、素質があっても金銭的に余裕がなく入学できない将来性ある若人技術者を掘り起こさなくてはいけないと思っております)

資源の乏しい日本では加工技術特に、精密分野において世界をリードしてきた自負がありますが、これだけの時計、カメラ等の精密機械産業が隆盛している現在、公立の時計学校を再度、設置しなければならないと思うのは小生一人ではないと思います。スイス時計産業がが、セイコーのクォーツクラッシュによって大ダメージを受けたにも関わらず不死鳥の様に今日蘇った大きな理由は、複数の公立の時計学校が継続して存続し、若手の優秀な時計技術者を毎年毎年、業界に送りだしてきた賜物ではないか?と思っております。

政府(文部科学省)、地方行政機関のトップの人々には是非考慮していただきたいと願ってやみません。