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2007年01月22日

●続時計の小話・第13話(角野常三先生について)

我が国の時計修理技術においては、多くの有名な先生方がおられますが、その中でも、巨星の如く光芒を放つ忘れてはならない先生がおられます。その方は、角野常三先生と言い、昭和29年、第一回CMW試験に末和海先生と共に受験し合格された、時計技術者です。

私がこの業界に身を置いた時、角野先生は、既に昭和42年に亡くなられておられ、一度もお会いする機会は無かったのですが、この業界人になった時から、角野先生の偉大な業績や噂を良く耳にしておりました。

角野先生は、福井・敦賀市の蝋燭問屋の長男としてお生まれになりましたが、思う事があり時計職人として大成する事を志し、京都、大阪へと修行を重ね、若くして大阪・荻の茶屋にて、更正堂時計店を開業されたのです。

角野先生は、己の時計技術を磨き上げるにも大変な努力をされたのですが、多くの内弟子を抱えて、時計技術の教育指導にも熱心に当たられたのです。(多いときには16名の内弟子を抱えておられたそうです。とても真似が出来る事ではありません。)

昭和32年の生野工業高校時計計器科設立にも尽力をつくされ、同校の技術指導講師として、多くの学生の教育に生涯をかけられたのです。また、昭和35年には、日本調時師協会(日本時計師会前身)の初代会長になり、CMWの育成、CMW試験の実施等に多大な貢献をされたのです。(晩年には大阪にカドノ時計学校を創立されたのでした。)

昭和40年初頭からの労働省時計修理工技能検定が、施行されるやいなや、技能検定中央委員として活躍され、今日の技能検定の隆盛の礎を築かれた先生でもあります。

日々のお仕事の傍ら全国各地に出張講義に出かけられ、先生の直の講義を受けた時計職人は、数千人の数に上ると言われ、その献身的な教育指導の足跡に、心を打たれます。おそらくこのような先生は二度と現れないと思うのであります。

偉大な角野常三先生に引けを取らない大津市の行方二郎先生も時計技術指導・時計技術者養成に人生の大半をかけられ多くの優れた時計技術者を輩出されたのです。ごく最近、行方先生と久しぶりにお電話でお話をしましたが一時期身体の変調をきたしておられましたが今ではお元気になられましてホッとしているところです