« 続時計の小話・第1話(定期的なOHの必要性) | | 続時計の小話・第3話(諸先生の思い出) »
« 続時計の小話・第1話(定期的なOHの必要性) | | 続時計の小話・第3話(諸先生の思い出) »
2007年01月22日

●続時計の小話・第2話(大切な時)

太古の昔より、人々は時という概念に強い関心を抱き、原始的な日時計、砂時計、水時計等を考案し、使用してきました。人々にとって、時間というものが生活にとても重要で価値あるからこそ、正確な時を計る計器として、『時計』の追求を果てしなく求めてきたのでしょう。

人々とって、与えられた時は永遠ではなく、限られた時間でしかありません。人生とは、その時の瞬間の積み重ねの集積と、言えると思います。一刻一刻を大切にしていけば、人生の後悔や失望や不安は、多少は無くなるのではないか?と思います。順風満帆に人生を過ごせることはほとんど無く、愛別離苦や怨憎会苦、求不得苦が有るのは当たり前の事だと思われます。『時は金なり』と言う諺がありますが、時は金では絶対買えないもので、人生は時という二度と得ることが出来ないものとの執着でもあり闘いとも言えなくもないでしょう。

一代で財を築き上げたM氏は晩年の死の間際に、後10年生き延ばせてくれる名医がいれば100億円出しても惜しくない、と言われたそうですが、それ程までに時というものは個人にとって貴重なものなのです。

昨今、若き人々がネットで自殺者を募り、亡くなられていく事を聞くに及び、また苛酷な労働条件の中、身体・神経が疲れ果てて、死を選択する人々が多いことを知り、とても悲しい思いにかられます。成人するまでにご両親が手塩をかけて多くの愛情を注ぎ、大変な苦労をかけて育て上げたにも関わらず、自ら命を絶つという事は、とても慚愧の念に耐えません。人間は、遅かれ早かれ、人知では計り知れない運命より死を迎えるもので、焦る必要は全くありません。折角、この世に人として生まれた以上は、天命を全うして欲しいと願って止みません。

地球が誕生して約50億年という想像を絶する年数が過ぎ去っていますが、人それぞれの一生は、その長さに比較して、瞬きにも及ばない一瞬だと思います。その短いとも言える人生を悔いなく生きるには、毎日毎日を精一杯生きる事ではないでしょうか?人生には、捨てる神もあれば拾う神もあると言います。明日への夢と希望と情熱を持って、若い人々にはどんな困難なことがあっても生き抜いていって欲しいとつくづく思います。

この世に人間として生を受けるという事は、大変な事であろうと思います。地球上には、いろんな数え切れない程の幾多の種類の生物が存在しますが、その頂点に君臨する人として生まれてくる事は、千載一遇のまたとない機会だと言わざるを得ません。日本では、聖徳太子の尽力により古くから仏教が伝播されていますが、仏教に時の観念として、

『劫(ごう)・・・天女が3年に1回その羽衣で四十里四方の巨石を磨って、石の形が無くなるまでの途方もない長時間・・』という時の長さを表す言葉があります。(現代では時折、未来永劫というふうに使われたりしています)一度命を失ったら、人々は無量劫に渡って彷徨うという事が言われています。という事は、再び人間としてこの世に生まれてくる事はほとんど不可能である、と釈尊は我々に言われているのではないかと思います。これからの日本を背負う人々には、貴重な時を大事にし、さらに命も大事にして、生きていって欲しいと心から思っております。