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2007年01月21日

●第247話(ティソの思い出)

今月初めより、スウォッチ・グループ・ジャパン(株)と、取引契約をして、 弊店は、ティソを販売しはじめました。ティソは、日本に初めて上陸した時は、『チソット』と呼ばれていました。(懐かしく思われる人も多いと思います)ティソの創立は古く1853年スイス・ルロックルにシャルル・フェリシアン・ティソとその息子シャルル・エミル・ティソによって興された由緒ある歴史を持った 時計会社の一つです。ティソ時計会社は枚挙にいとまがないほど次から次へと新開発のムーブメントを作り続けてきました。

欧州ではおそらく一番親しみのある時計会社で販売実績もトップクラスではないかと思います。今から40年ほど前は、日本の総輸入代理店は『シイベル時計(株)』が輸入元で、オメガとバセロン・コンスタンチン・チソットの3本柱で、取り扱っていました。今から40年~50年前のオメガ腕時計は、男性の垂涎の的の腕時計で、(今でもそうですが)いつに日にかは必ず腕につけてみたいと恋い焦がれるブランドでした。

その頃のオメガもかなり高価格で、余程時計好きの人か、収入に余裕がある人でないと買えないステイタスな時計でした。その頃のチソットはオメガの姉妹品の様に取り扱いされ、オメガまで手の届かない人達や舶来品のスイス時計をを一度持ってみたい、という人々にチソットが愛され購入されました。当時から、オメガよりもデザイン的には、優れた商品が一杯あり、 日本各地でかなりの数が売れたものと思います。

小生が、少年の頃、湖北の商都、長浜市で一、二を争う時計店は、『INO・・時計店』と『YA・・時計店』でした。実家の時計店は3番か4番目位、だった記憶があります。人口4万の小都市に、当時は時計店が20店舗近くもありました。(そんな過当競争でも充分皆さん飯が食えたのです。)その頃の、非常に小さい時計店であった、『FU・・店』、『IWA・・店』の2店の経営者が先見の明があったのでしょう、オメガとチソットを長浜市で初めて取り扱い始めたのです。

私の父親は、人口4万の長浜市でオメガ、チソットは売れないだろう、という甘い推測をしていましたが、蓋を開けてみると、二店の店でオメガ、チソットがとてもよく売れ出し始め、長浜中で評判が立つ程の店に急成長しだしたのです。慌てた父は、シイベル時計と連絡を持ち、オメガを取り扱いしたい、と願いでましたが、既存のオメガ販売時計店である、二店舗から新規取り扱いを反対され、オメガ、チソットを取り扱いできなかったという苦い経緯がありました。

小さかった『FU・・時計店』、『IWA・・時計店』は、今では、大きな店に成長して、湖北では誰もが知っていた老舗の『INO・・時計店』は、閉店に追い込まれてしまいました。(経営者の舵取りひとつで会社・店の命運が決まってしまうのは何時の時代でも同じ事なのでしょう。)経済成長とともに、消費者の方々の所得が向上するにつれ、時計店は、粗利の大きい宝飾品にウェイトを置くようになり時計関係の売り上げは何処でも減少の一途になってゆき、時計のみで生活の糧を得ていた日本各地の零細時計店は、閉店や倒産に追い込まれていったのです。

バブルが弾けた1990年以降、宝飾品関係の売り上げは、激しい減少にあい、日本の有名宝飾店も今日まで四苦八苦しているのが現状でないか?と思います。日本でバブルが弾けたと、同じ頃から、機械式腕時計が日本の消費者の方に見直され、徐々に人気が出てきて、今の隆盛を迎える様になったのです。弊店でもティソを漸く取り扱い出来る様になり、親父の無念な気持ちの鬱憤晴らしが今頃になって出来たのではないか?と 喜んでいます。

現行のティソもデザイン・価格・機能的な面も大変よく昔のように日本でも きっと人気が出てくるものと思っています。

最近、頂くメールの中に「時計職人になりたいのですが、どうすればいいのですか?」という問い合わせが多いのですが、私の希望としては、時計技術を身につけて時計店を立ち上げてほしい、と願っています。機械式腕時計が売れる時代の今、技術をしっかり身につけたなら小資本でも時計店開業は出来るものと思います。弊店の時計技術通信講座卒業生のH君もK市に、アンティーク・ウォッチの店を開店して頑張っているとの事、嬉しく思っています。