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2007年01月21日

●第134話(昭和初期の時計店の風景)

私の父は彦根商業学校を卒業後、彦根市内の親戚の時計店の紹介で、京都府綾部市のH時計店に就職しました(昭和10年の頃の話です)。そこは地元では大きな時計店で、時計職人が数人おられる規模の店でした(昭和40年代以前は、大きな時計店では時計職人を5人以上抱えている店はけっこうありました)そこでみっちり技術を身に付けて、父は時計旋盤も自由に使えるようになり、時計職人として一人前になりました(私が一時、家業を継いたとき、父愛用の錆びたボーレーの旋盤が埃まみれでありました)。

そこで一からの見習いから始まり数年修業して、次男であったため祖父から資金援助をしてもらい長浜市に小さな店を開きました。

その頃はいくら金があったとしても腕時計を仕入れできないので(精工舎の生産量がごくごく限られていました) 時計材料店から時計ケース・文字板を何十個と仕入れて、賑やかしに店頭に並べていました(当然中には機械は入っていませんでした)。
お客さんにはケース・文字板を選んで頂いてから、機械を中に入れる作業をして売っているという状態でした。時計店でありながら腕時計の在庫は数個位しかないという寂しいものでした(それほど当時は腕時計は貴重品でした。今では隔世の感がありますね。小学生のお子達も1~3個位持っている時代ですから)。

父の説によると技術の腕も良かった?ので長浜市で評判になり、駅前通りに一軒のそこそこの店を構えるほどになったと言っておりました(現在は弟2人が時計店と眼鏡店を引き継いで経営しています)。

時計店としてやっと軌道に乗り、これからという時に太平洋戦争が勃発しました。
当然父も召集され、千葉県の第?師団に行きました(亡父から聞き漏らしました)。
そこで師団長や将校に父は非常に重宝がられました。と言うのは上官は殆ど懐中時計を持っており、落としては天真を折って壊していたのです。そこで父が修理を受け持っていたのです。その為に師団長に可愛がられ、仲間が支那・満州に出兵していく中、戦時中はずっと内地にいられたと言っていました。嫉妬からか直属の上等兵からよく殴られたとも言ってました(後年、殴られた後遺症で晩年、父は極度の難聴になりましたが)。無事に兵役を終え長浜に戻り、時計店をまた細々とやりだしたのです。

精工舎が順調に生産が復興すると共に、どこの時計店も活気が戻ってきたのです(精工舎は戦争中、軍需協力工場として兵器の生産をしざるを得なかったそうです。その為に時計の生産設備を諏訪市に疎開させたのです。それが今では世界的に有名になったセイコー・エプソンの始まりです。太平洋戦争がなかったら現在のエプソンは存在しなかったでしょう)。