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2007年01月22日

●続時計の小話・第47話(華麗なる一族、服部家の内紛)

先日、驚天動地のニュースが飛び込んできました。セイコーの機械式腕時計を生産している、セイコー・インスツルの会長兼社長代行の服部純市(純一)氏が臨時の取締役会で緊急動議が発案され、解任に追い込まれたそうです。

服部純市氏は、創業者服部金太郎氏、二代目社長服部玄三氏、三代目服部正次氏、四代目謙太郎氏、五代目一郎氏に次いで六代目の社長に当たる人です。解任の理由は色々と取りざたされていますが、純市氏は学究肌の論客として著名で、優秀な経営者として目されてきました。

岩手県・雫石の高級メカ式・匠の工房も彼の発案によるとされています。純市氏の弟は服部真二氏で、セイコー・ウォッチ(株)の代表取締役社長を務めておられますし、下の秀生氏もセイコー・インスツルに勤務しておられます。

純市氏の叔父さんに当たる人が、販売の神様と言われた服部礼次郎氏で、(株)セイコーの名誉会長の地位にあるという、セイコーの嫡流の子孫にあたる人です。

純市氏がセイコー・インスツルの15%の株をもっているという、筆頭株主であるにも関わらず、取締役会で純市氏以外の全員が解任動議に廻ったという事態は異常な事と言わざるを得ません。

推測するに、独断専行的な事があった事が解任理由に取り挙げられていますが、創業者一族が中心となってセイコーグループの今日までの繁栄を脈々と築いてきた事を考えれば、取締役の人々が純市氏を盛り立てて会社を運営し適切な助言・補佐をして円満に解決すべきだったのではないかと思います。純市氏を補佐する名参謀役がおられなかったのではないかと思われ残念です。

服部家一族には、リーダーシップが取れる優秀な経営者が次から次へと輩出した事により、東洋の一時計メーカーが世界中の人々から認知される一大有名時計メーカーへと、発展しました。創業者の服部金太郎氏は、裸一貫で身を興して、銀座に服部時計店を興し、時計製造の精工舎も起業しましたし、二代目社長玄三氏は、多難な戦時中にあるにも関わらず、精工舎を存続させ、玄三氏の弟の正次氏は、日本のセイコーを世界のセイコーへと大きく脱皮させた功労者でもあります。

玄三氏の長男、謙太郎氏と正次氏の長男、一郎氏も敏腕な経営者として有名で、特に一郎氏は諏訪精工舎をセイコー・エプソンへと大きく変貌を遂げさせる事が出来た、優秀で辣腕な経営者でありましたが、謙太郎氏と一郎氏が1987年に相次いで若くして亡くなられた事は、セイコー・グループにとって非常に大きな痛手であった、と言わざるを得ません。今日まで一郎氏が存命であったなら、この様な騒動は起こらなかったのではないか?と思わざるをえません。

エプソンが情報関連機器メーカーとして押しも押されぬ世界的な大メーカーになり、セイコーのメカ式腕時計がようやく時計愛好家に認知されはじめ、よく売れる様になってきたこの時期に、この様な醜聞が飛び込んできたのは、セイコー社の長年に渡り作り上げてきたクリーンなイメージには、打撃であると言わざるをえません。

多様な才能を持った人々を輩出してきた服部家には、純市氏の従兄弟に譲二氏がおられ、彼はバイオリン奏者として世界的に有名で英国王立音楽院の教授を務めておれらるほどです。また、正次氏とその長男の一郎氏は、美術工芸品の収集を生涯に渡りされてきて、そのコレクションされたフランス絵画等がサンリツ服部美術館に展示されて一般に公開されています。

父親から二代に渡るセイコー・ファンの小生に取りまして今回の騒動を冷静に対処して円満解決することを願っております。