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2007年01月22日

●続時計の小話・第39話(井上信夫先生について)

広大な敷地内に明治時代の有名な建築物や明治の文豪の屋敷を集めた
明治村には多くの当事の古時計(掛時計や置時計、懐中時計)が、展示されています。明治村には明治時代の日本人の気骨・情熱・気概が肌に強く感じられるような雰囲気を持ったとても良い場所であります。

明治村にある、その多くのアンティーク時計を修復修理されたのが、日本で時計技術者として、一番有名な井上信夫先生です。先生は昭和45年から昭和 49年にかけて明治村の依頼により、展示されている明治時代の時計の修復修理をされて、全ての時計を正常に動く様に直されたのです。

その時の井上先生は、70歳代にも関わらず全身全霊を持って、その名誉ある仕事を完成されたのです。その業績はとても頭が下がる思いです。誰もがとても真似が出来るものではありません。読者の方で名古屋方面へ旅行をされたなら、ぜひ、明治村に立ち寄って、先生の偉業を見ていただきたいと思っています。

小生も何度か明治村に足を運んでいますが、推察するに非常に困難な修理作業の連続であったと思わざるを得ません。おそらく、多種多様の部品別作、歯車入れホゾ、入歯、脱進機の大幅な修理等の難作業が多くあったと、思います。

井上先生は、米国時計学会日本支部の初代理事長に就任され、日本でのCMW試験の委員長として、一橋大学の山口隆二先生と共に日本時計技術のレベルアップに大いに貢献された、大恩人でもあります。小生は昭和47年に一度しかお会いしていませんが、背筋を伸ばされて毅然とした姿勢・態度には、おそれ多くてとても近くには行けない存在の先生でした。

先生は明治33年に新潟県三条市でお生まれになり、(株)服部時計店(セイコー)に入社され、時計修理部門に配属されるや否や、技量・能力を大いに認められ、若干30歳で修理部長になり、部下数十名の時計技術者の育成等に力を発揮されたのです。その後先生は、名古屋の(株)愛知時計電機に移られ、時計研究課技師、時計検査課長、工場長まで登り極められた方でありました。

井上先生の夢は、スイス・ユリスナルダン製マリンクロノメーターに匹敵する、国産のマリンクロノメーターを製造するのが夢でしたが、資金の面で苦労され、その計画が一歩手前で頓挫した事は、日本時計産業史にとっては非常に残念な事であった、と言えます。

井上先生の逸話として先生は何処に行かれようと、小旅行されようとポケットにはピンセット、ドライバー、キズ見を常時、持って出かけられたそうです。先生の一生涯は本当に真の意味での時計師だったと思います。