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2007年01月21日

●第194話(セイコー卸商について)

現在では(株)セイコーの子会社『セイコーウォッチ(株)』から、全国の時計店がセイコーの腕時計を仕入れます。しかしかつて時計卸商が群雄割拠した時代では、各地域の主要都市にセイコー時計卸商が一つか二つは必ずありました。東の横綱は山田時計店(東京・仙台に営業所がありました)で、西の横綱は栄光(大阪)です。その他には、磯村時計商会(東京・名古屋・大阪)、東京三光舎(東京・仙台・横浜・大阪・金沢・福井)、沢木時計店(東京)、東信商会(東京・富山)、金栄社(東京)、コジマ(東京・千葉)、太陽興業(大阪)、裕工舎(大阪)等々が有名でした。

しかし卸商無用論が標榜され、幾多の吸収合併・統廃合が(株)服部セイコー主導で行われ、ほとんどのセイコー時計卸商はこの世から消えて無くなっていきました。ただ一つ現在でも存続している卸商は、大阪の栄光時計のみになっています。

私が長浜の家業を手伝っていた頃(昭和45年頃)、父親と一緒に大阪の栄光と太陽興業を訪れて、よく仕入れにいきました。その頃セイコーが沢山売れた時代なので、卸商の店内は活気に満ちあふれていました。従業員の方々が、各地方の時計店に腕時計や掛け時計を出荷する為に、慌ただしく梱包作業をしておられました(掛け時計・置き時計は段ボールで梱包しないで、木で枠組みを作って発送していました)。
その頃のセイコー時計卸商はどこも元気があり、セールスマンもイキイキとされていました。

春の入進学シーズン「フレッシュマン・セール」の1ヶ月間に、300本・500本単位で仕入れると温泉旅行招待等があったものです。しかしながら父親も頻繁に大阪までには行けません。その当時長浜には高級品のみを扱う飛脚業の方が二人おられ、毎晩小売店に来て「何か大阪に用事はありますか」と注文に来られました。その当時はセイコーが爆発的に売れていた時代なので、人口4万人の長浜市でも、毎日3~4本のセイコー腕時計の注文があり、それを飛脚業の人に頼んでは、大阪の卸商まで行って、取って来て貰ったりしました。

飛脚業の人は、朝一番の鈍行列車で大阪へ行き、夜の7時頃までには長浜へ帰ってきて、各時計店から依頼された商品を届けに回られてました。今から思えば、大変な仕事をされていたんだな、とつくづく思います(現在のような大きなトランクではなく業務用の大きな風呂敷で包んで、自転車で背負って運ばれてました)。

また、正月になると各卸商から「初荷」が届きました(セイコー腕時計50本くらい)。
その初荷の商品は、売れ筋商品が3割くらいで、あとの7割は抱き合わせの、売れにくい商品が入っていたりしたものでした。私は父親に「売れにくい商品は返品したらどうか」と言うと、父親は「店を信用してこれだけ沢山送ってくるのだから、返品は出来ない」と言って、仕入れてしまいました。そういう時計は結局は売れ残り、店の奧の金庫に大量にたまっていた記憶があります。

私が石川県で時計店を開業した頃、東信商会の富山支店から時計を仕入れていましたが、金沢にはセイワと言う時計卸商もありました。しかし今では二つとも消滅しました。そして、中部地方の時計卸商は中部セイコー販売に全て吸収されました。それも現在では無くなり、セイコーウォッチ(株)一社のみになってしまいました。今から回想すると、沢山のセイコー卸商がこの世から消えていった事に、寂しさと侘びしさを覚えます。裏返せばそれだけ時計店でセイコー腕時計がだんだん売れなくなっていった証拠なのかもしれません。

余録・
一方の雄、シチズン時計は20年前、金沢に岡時計店、乾時計店と言うシチズン卸商がありましたが,2社が合併し岡乾(株)になり、これも今では消滅して中部シチズン販売(株)金沢支店のみになっています。セイコーは北陸には一社もセイコー卸商・営業所は存在しません。