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2007年01月22日

●続時計の小話・第22話(業績を残した時計産業人)

日本の今日における時計産業の隆盛には、多くの先人の人達の一方ならぬ努力の賜物だと思っています。小生がこの業界に携わって35年間、鮮烈に記憶に残っている時計産業人の人々の事を思い出したいと思います。

やはり一番に名前を挙げなければならないのは、服部時計店を世界のセイコーへと導いた、三代目社長服部正次氏だと思います。今日のセイコー社の盤石たる礎を築いた人ではないかと思います。小生は若いとき、一度だけ氏にお会いした事がありますが、慶応大学出身だけに長身の細身のダンディな人でした。

お客様(時計小売店)を非常に大切にされ、時計店の店主がシチズンよりもセイコー腕時計を積極的に拡販したのは、氏の時計店への熱い思いが店主に伝わったのではないか思います。

シチズン時計には山田栄一氏、リコー時計には市村清氏等の個性的な名物社長がおられ、この時計業界をセイコーと共に引っぱってこられました。

クロック業界では、セイコー・クロックと二分する程までに、大きく会社を育てあげた、リズム時計工業の谷碧氏がおられます。20~30年程前は、リズム時計のセールスマンは商売熱心でワゴン車にクロックを100個以上目一杯積んで、1週間にいっぺんは時計店に訪問販売をしていました。それほど頻繁に時計店に通わなければ、セイコー・クロックと太刀打ち出来なかったのではないかと思います。またその頃はクロックが店頭で本当によく売れたものでした。

現在では、セイコー・クロックもリズム時計も販売先がディスカウントストアや量販店に集中している為に、時計店への巡回販売活動がほとんど見られなくなり、一抹の寂しさを覚えます。弊店でもクロックはほとんど店頭では売れなくなり、贈答品用に一部売れるだけになりました。この現象は日本国中、どの時計店にも言えることではないか?と思います。

時計卸業界では、ユニバーサルの日本総代理店であった村木時計の村木栄太郎氏が特に記憶に残っています。氏は月刊誌の『時計技術』を長年出版され、日本全国に著名な時計技術者を同伴して、時計技術講習会を開かれました。氏の活躍でどれほど時計職人が腕を磨き上げたか、大いに時計技術のレベルアップに貢献されました。

また、菅波錦平先生と共に時計技術通信講座を開かれ多くの受講生をCMW、1級、2級時計修理技能士へと、導かれました。

その他には、パテック・フィリップを日本で有名にされました一新時計の西村隆之氏、シチズン時計の卸元堀田時計店の堀田両平氏、ウォルサム、テクノスの日本総代理店、平和堂貿易の高木克二氏が特に有名でした。

35年ほど前は、日本でスイス腕時計として一番人気のあったのがラドーとテクノスでしたが、そのラドーの日本総代理店を旗揚げされた、酒田時計貿易の酒田武敏氏がおられました。

氏は、ラドーを日本で一番人気のあるスイス時計へと育成されましたが、ラドーの販売権利をスウォッチグループに譲った為に、販売の柱を失い、先年会社が解散した事は、惜しむべき事でした。(栄光時計の小谷氏、山田時計店の山田氏は以前に書きましたので省略します。)